島田精一さん × 平澤創 [対談]
島田精一さん × 平澤創 [対談]

フェイス25周年記念Webサイトスペシャル対談企画4【後編】
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Faithグループ アドバイザリー・ボード 島田精一さんに訊く
『朝の来ない夜はない。人生は楽しむためにある』
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

誰も未来を感じなかったIT産業、先行投資が膨らみ大赤字、
「夢の島(ゴミの島)」と揶揄された情報産業部門。
新たなビジネスを次々と創造し、3年で黒字化へ。
人生は、
禍福(かふく)は糾(あざ)える縄の如(ごと)し
平澤 創(以後平澤)
これからは、IT産業の黎明期に島田さんが立ち上げられた新しいビジネスについてお伺いしていきます。たくさんの新規事業を通じて、新しい時代を築かれたという印象です。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
島田 精一さん(以後島田)
メキシコでの経験を筆頭にここまでの人生で、「朝の来ない夜はない。夜明け前が一番暗い」の想いを体験してきたわけですが、1987年にメキシコから帰ったら、今度は当時の副社長に「島田君は勉強が好きらしいからハーバードに留学しろ」と言われたんですね。本当に人生というものは、いろいろなことが起こるなと(笑)。47歳の時です。喜んでハーバード大学のAMP(上級経営プログラム)コースに半年留学し、いわゆるIT・ITCの世界的な大家ウォーレン・マクファーレン教授と出会いました。今、思うと僕にとっては大変な出会いでしたね。
平澤
1987年といえば、いよいよインターネットが来る直前、夜明け前です。
島田
そう、夜明け前。ただ当時はマルチメディアとか、メディアミックスとか言っていた時代ですね。Windowsが出たり、マッキントッシュが出始めた頃。
平澤
ちょうどその頃です。
島田
インターネットの商業解禁は1993年ですからね。
平澤
当時はAOLをはじめ、アナログ回線通信しかなかった。
島田
そうそう。その後、三井物産とAOLでAOL JAPANを作りますけどね。
平澤
そうなんですよ。あの頃の島田さんの新規事業への投資の仕方、日本国内でのビジネス立ち上げの仕方のお話は非常に興味深くお伺いしました。
島田
そのウォーレン・マクファーレン教授がITというものが、これからいかに大事かを説くんですけど、僕には最初、全然理解できなかった。ITなんて全然勉強していないし、何より分野が違うからね。先生の言葉で最も刺激的だったのが、「Who controls information system controls the enterprises.」。「IT、つまり情報システムを制する者は企業を制する」と言われたことです。情報を得ることはそれほど企業にとって大事だし、まさに情報システムが新しい企業、ビジネスモデルを作る、と先生は言ったんです。まさに今、Google、Yahooを筆頭に多くのビジネスモデルが誕生していますよね。
平澤
当時は、それを想像できる人は少なかった。
島田
この20年で生まれてきた、新しい大きなビジネスというのは、殆どITから出てきているし、その説は正しかったんですが、同時に先生は当時のシティバンクやウォルマートといったITを駆使している企業が業界の中でトップになりつつあるんだ、ということもおっしゃっていたんです。僕は非常に遅れていて、ITなんてシステム屋のやることで、経営者がやることではないと思っていたんですけど、先生がものすごく熱心に言うものだから、徹底的に勉強してみようと腹を括りました。そうして半年の間かなりの勉強をして帰ってきたら今度は「君、半年くらい、それこそ窓際族で遊んでいろ」って言うんですよ。一生懸命、勉強してきて、会社に貢献しようと思っているのに、少しゆっくり休めって随分失礼だなって思ってね。会社としては、メキシコの件もあるし、朝から晩まで勉強漬けのハードなハーバード生活を過ごしてきたんだから、少し休んでおけという親心だと思うんですけど、本当に窓際に机があった。
平澤
そうなんですか(笑)。
島田
機械総括部次長というタイトルだけあって、担当もなく、何もやることがないので、ITの本を徹底的に読み漁りました。
平澤
ああ、なるほど。まさしくこれからが、そのタイミングですからね。
島田
このことが、その後にものすごく役に立ちました。あと先生の弟子がイスラエルに帰る際、偶然にも日本に立ち寄ってくれて、暗号技術や3次元映像の話など、最新のアメリカ、イスラエルの状況を聞いてすごく刺激を受けました。そうこうしているうちに、今度は社長直轄の経営企画室長に任命されました。そこで、社長と副社長から、「今後の三井物産はビジネスモデルを変えなくては生きていけない。1年間スタディをして、三井物産の10年後、20年後のあるべき姿を答申してくれ」という命題が課せられた。すごいな、三井物産の将来を左右するようなことを命じられちゃったって(笑)。これはハーバードから戻ってから提出した2つのレポート「アメリカにおけるM&AとLBO」「アメリカにおける経営と情報システム」を上司が見てくれてね。当時の三井物産は商流ビジネスが主だったんだけれど、機能なき中間者は排除ということで、そうした仕事は小さくなりつつあったんです。
平澤
ああ、確かに。
島田
そこで人事部長に「35歳前後の優秀な、優秀なというのは、本当のガッツのある、やる気のある人を7つの各本部から出してくれ」と頼み、チームを作りました。けれど、その人たちはエースだから、専任にすることはできないので、「長期業態ビジョン」というタスクフォースの委員になってもらった。毎日2時間、それから土曜日曜もほとんど毎週集まってね。
平澤
今だとややこしいことになりますけど(笑)。
島田
まあね。当時はね。
平澤
エース級で、しかもみんな熱心だったから。
島田
そうそう。
平澤
しかも35歳くらいという、いい年齢を選択されましたね。
島田
日本の将来を担っているという意識が高いメンバーが集まったね。寺島実郎(評論家・多摩大学学長)や井沢吉幸(前ゆうちょ銀行社長・現ブラックロック・ジャパン会長)をはじめ、当時のメンバーは色々なところで活躍していますよ。それで「これからは10年くらいかけて投資をして、自らがリスクをとって、事業をやらなくてはいけない。事業投資で利益の半分くらいをあげられるような会社に変身しないとこれからの商社は成り立たない」、そういう答申を出しました。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
いわゆるかつての商社ではない。
島田
そう。それで、これで終わりかと思ったら今度は、経営会議に呼ばれて、どういう分野に投資するのか2、3ヶ月で示せ、と(笑)。そこでタスクフォースを復活させて、1位が資源エネルギー、2位がIT分野、3位がサービス事業分野への投資という結論を出しました。
平澤
資源エネルギーは昔から商社が投資している分野で、ある意味、コア・コンピタンス、強いところですね。
島田
日本は鉄鉱石や石炭、原油に投資する会社が少なく、金額も大きいので、商社がその役割を担っていたんですね。ですから、ここは自分たちの得意分野だからもっとやるべきだと考え、当時2,000億円くらいだった投資額を1兆円くらいにすべきではないかと答申しました。そして、2つ目がIT分野への投資。
平澤
これは新しかったでしょう。
島田
新しかった。これは、先ほどのウォーレン・マクファーレン教授の教えからですけど、第一、三井物産はITに最も近いじゃないか、と気付いたんです。だってすでに物流やっているんだから。今で言うeコマースです。
平澤
本当はそうなんですよね。でも、なかなか気づかない。
島田
やりとりの手段を電話やFAXからインターネットに変えればいいだけ。
平澤
今、思えばそうですけど、当時、それをおっしゃるというのはすごいと思います。
島田
それは、ウォーレン・マクファーレン先生の受け売りだけどね。経営企画室長を3年務めて、前所属の化学プラントに戻るはずでしたが、今度は「情報産業本部の本部長になってくれ」と言われて、その時は一瞬たじろぎましたよ。情報産業本部は、2、3年前にできたばかりの本部だったけれど、真っ赤っ赤の部門だった。
平澤
それをやれ、と(笑)。
島田
そう。その時分、化学プラントは絶好調で、会社の稼ぎ頭だったのに。
平澤
そこに戻るはずが。また大変なことに。
島田
100人くらいの部門で、年間約50億円の大赤字。
平澤
それはすごい。
島田
それを「3年以内に黒字にしてくれ」と。これはもう大変だと思ったけれど、よく考えると、僕としても会社としてもとてもタイミングがよかったんですね。1990年だったから。当時、知り合ったのがインターネット、IT業界の黎明期を支えた人たちです。1993年にインターネットが商業解禁、1995年にWindows95が発売。
平澤
この1990年から一気に情報通信の領域で事業を次々に立ち上げていかれましたね。
リスクなきところに利益なし
島田
結局、僕は三井物産で53の会社を作って、そのうち成功したのは10社くらい、うち7社が上場したんだけど、最初に手掛けたのが、1989年に伊藤忠さんと一緒に第1号衛星を打ち上げたJCSAT、衛星事業です。当時、衛星を1つ打ち上げるのに300億円かかったんですよ。衛星そのものは200億円、50億円がロケット代、それから50億円がなんと保険代。今は5億円くらいに下がっているらしいですが。そして、コンペティターは三菱商事さんがやっていた宇宙通信。ここの衛星は1発目、落ちるんです。2発目は35,000km上空まで上がったんですが故障した。
平澤
お気の毒に。
島田
我々は1号機・2号機とも運よく打ち上がり、次に3号機を打ち上げようとしたら、三菱商事の例を見て、「リスキーすぎる、もう3号機はやめろ」と経営会議でトップ以下全員一致で反対したんです。もちろん反対する理由もよくわかります。ところが、伊藤忠は積極的だった。今でもそうだと思うけど、当時、伊藤忠の方がIT分野では進んでいましたよね。僕はやらなきゃいけないと思うし、若い人もみんなやるって頑張っているのに、いくら掛け合っても社内の投資許可が下りない。僕が社長を口説けない、経営会議も口説けない。僕は非常に楽観主義者だけれど、あまりのプレッシャーに、ある朝、玄関で腰が抜けて、座り込んだまま体が動かなくなりました。それでも踏ん張って出社し、2日に一度、社長のところに通いました。大変忙しいからなかなか会ってくれないんだけど、じっと待ってね(笑)。
平澤
しつこいな、また来たのか、みたいな感触ですよね。
島田
そう。でも頑張り続けて、最終的には伊藤忠の責任者だった専務にもサポートしてもらって、やっと投資許可がおりました。「そこまで君が覚悟しているなら、君が責任を取るならやっていい」って(笑)。結局、その後全部で20発超打ち上げましたが、幸いなことに全部うまくいったんです。
平澤
この話、私は運命というか、歯車が合うのを感じるというか、やはり、そこまでの努力をした人は報わるというケースがすごく多いと思います。
島田
まあ、成功したのは運だと思いますよ。
平澤
運も含めてですよ、本当に。
島田
衛星が上がって、次はそのユーザーの開拓です。衛星1基あたりトランスポンダ(中継機)が24本。1本のリース代が年間5億円でした。国土の広いアメリカでは、例えば、GMやフォード、デュポンといった会社が自社ネットワークとして、通信がわりに衛星を活用していました。衛星の場合、自ら基地局を作れば、空の上から全部配信できるので同報性が高い。ただ日本は、国土が広くないから同じような用途のニーズは残念ながら広がらなかったんです。最初に契約してくれたのは、代々木ゼミナール、それから河合塾、今の東進ハイスクールといった予備校でした。名物先生の授業を日本中に同時配信して、どこにいて受けられるようにしたんです。他にアメリカをはじめ海外からの契約もあったけれど、まだまだ使いきれていない。使わなくてもコストはかかる。それでアメリカの状況を調べたら、アメリカにはDirecTVという放送局があって、衛星放送で何十本も使っているということが分かった。当時は日本に衛星放送会社が無かったので、無いなら作っちゃおうということになり、これまた三井物産と伊藤忠の合弁でPerfecTV!を立ち上げた訳です。
平澤
チャンネル放送のために衛星を上げたのではなく、結果的にそういうことになったという順番だとは思っていませんでした。
島田
急に思いついたんです。それで一気に中継機20本くらいを衛星放送使用した。
平澤
ブランディングがすごく上手いと思いました。
島田
今はJCSATとPerfecTVが一緒になり、三菱商事の宇宙通信、DirecTVも一緒になって、スカパーJSATになっています。さらに、衛星放送用のコンテンツが足りないということで、囲碁・将棋チャンネルや松竹の衛星劇場、ムービーチャンネル、キッズチャンネルなど、数々の放送局も自分たちで立ち上げて。このビジネスは成功しましたね。
平澤
今のお話を聞くと、初期は日本の中だけで多彩なチャンネルを作って、一定の地位を得たと思うんですけど、近年は、Netflixをはじめ、海外のネット放送に押され気味で、日本の中で独自のものができにくい。全部、海外勢にやられっぱなしのような気がします。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
島田
それはね、僕も心配していますよ。当時は1985年の通信事業法の改正、放送と通信の自由化が起爆剤となって、商社以外にも電力会社や鉄道会社といった異業種も放送と通信の業界に参入して新たな産業を生みましたからね。コンテンツ繋がりで行くと、テレビショッピングのQVCもそうです。このビジネスの前身となったテレビ通販番組は、1992年にイギリス出張の際に、同行していた若い社員と一緒にテレビを見ていたら、いわゆる通販番組を衛星放送していたのに遭遇したことに始まります。新しいことが好きな彼が、「こういう番組を日本でやれないか」って言い出して。
平澤
このビジネスも偶然だったんですか。
島田
偶然。それで彼が「やってもいいですか」っていうから、「やれ」とね(笑)。僕はノーとは言わない。だいたい、「Yes,But」だから。やってもいい。だけど、慎重によく調べてやれよ、とね。すると、彼は番組を作っているナショナルメディアというアメリカの会社にその場で、電話をかけた。
平澤
行動が早いですね。そういうことは本当に大事ですね。
島田
そう。それで僕は「君ね、善は急げだから、ロンドンからすぐにニューヨークに行け」って言ったの。彼はすぐにニューヨークに行って、向こうの社長と話し合い、日本でのビジネス展開のOKを取り、日本に帰ってきた。アメリカではCATVと衛星で放送していたけれど、当時の日本はあまりCATVが普及してなくて媒体としては弱い、一方、衛星は使用料が高い。そこで、三井物産が株式を保有していたテレビ東京のスポンサーがつかなくて困っていた朝の4時から5時までの時間帯に放送しようとパッと気がついた。前に10万円でもいいからスポンサーを探して欲しいと聞いていた枠でした。そこに30分で2つの商品を紹介する番組をダメ元で立ち上げました。
平澤
それがハマったんですね。
島田
そう。しかも放映にかかる固定費は支払わず、商品売り上げの8%をテレビ東京に払うというレベニューシェアを提案したんですよ。テレビ東京は、そんなことやったことないって、大騒ぎになっていた。でもそれによって結果的にテレビ東京も大儲けすることになるんだけどね。放送初日は、忘れもしない1993年7月15日。「2,000人くらいのアクセスがあって1万円程度の商品が100個くらい売れるかな」と予想していたら、なんと初日だけで3万5,000通の電話かかってきて、1万個売れた。
平澤
ほう。
島田
結局、その年は、年間で120億円売れました。
平澤
すごいですね。
島田
テレビ通販第1号と言われ、約10年続きましたが、競合も増えてきたし、商品供給力が落ちたのでやめました。するとすぐにQVCの話が来た。その時は、僕は副社長になっていたけれど、また上の人に反対されて。
平澤
もう上の人って、そんなにいないですよね(笑)。
島田
経営会議がね。ここでもまた奮闘して、2000年にスタートして、今も続いて大成功しています。
覚悟に勝る決断なし
平澤
島田さんのお話を伺っていて共通して思うのは、島田さんが立ち上げた事業は、最初、ほとんどの人が否定的、みんな反対というのが本当に多いなと。
島田
新しく、経験のないことだからです。
平澤
おっしゃる通りですよね。それを全て論破するというか、本当に周りを巻き込んで成功に導かれている。そうして日本における新しい産業のパイオニア的な存在になっている。
島田
それを一言で言うなれば、「覚悟に勝る決断なし」ですね。
平澤
なるほど。なるほど。
島田
誰かに責任を押し付けようというところがあると、なかなかいい決断はできない。俺が責任を取るんだ、と決めれば、迷うことなく決断できる。決断ってなかなか難しいでしょ。
平澤
本当に難しいと思います。
島田
社長になるとね、しょっちゅう覚悟していたら会社潰れちゃうから。
平澤
おっしゃる通りです(笑)。なかなか難しいバランスですよね。
島田
ただ、PHSは大失敗しましたよね。PHSは携帯電話がまだ成功しないうちに確立された日本の技術で、郵政省が中心になって普及させようとしたんです。中継機の投資が非常に小さかったから、サービスエリアも一気に広げられました。データ通信にも適合した技術だから、携帯電話とは用途を棲み分けて共存できる技術だと判断して他社と協業する形で参入しました。結局、その後、技術が確立された携帯電話の使いやすさには敵わなくて、僕らは持ちこたえられず、2000年に300億円の損失を出して撤退したんです。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
でも、とても意味あるチャレンジだったような気が私はします。
島田
そうですね。失敗は好んですべきではないし、慎重に進めてなるべく失敗はしない方がいいけれど、新しいことにチャレンジするとどうしても失敗はあるわけです。失敗しないことはありえないから、失敗から学ぶことが大事だ、と常々思っています。失敗には必ず理由があるわけで、それをよく吟味することが必要。だから失敗は成功のもとであり、下手すると、成功は失敗のもとになる。一回、成功したからといって同じようにやっていると、だいたい失敗します。僕は1990年代に年に4、5回、シリコンバレーに行っていましたが、そこで出会ったベンチャーキャピタリストに投資先の見極め方として教わったのは、「特に重視しているのはトップのキャリア。すでに2、3回失敗している人は成功の確率が高い」ということでした。ビジネスモデルや技術はもちろん大事だけれど、それだけではダメで、トップ本人が2、3回の失敗経験を持っているだけでなく、経営経験のあるシニアがCOOやヴァイスプレジデント、あるいはアドバイザーでついている企業、それがもっとも確度が高いと教わりました。
平澤
シニアの経験ですね。当社もアドバイザリー・ボードで島田さんについてもらっています。
島田
いやあ(笑)。
平澤
本当に、島田さんのお話は毎回、生きた経験が聞けて面白いです。最後に、今後のFaithに期待することをお聞かせいただけますか。
島田
僕は、新しいことに取り組み続けるFaithの姿勢にすごく期待しています。着メロからスタートして、日本コロムビアの買収をはじめ、多方面の分野に展開していくなかで、僕なりに分析させていただくと、音楽×ネットワークによる新しいサービスの創造といったことを共通テーマに、常に新しい可能性を模索しているのだと理解しています。ですから、グループ会社間、部門間のシナジー効果をうまく発揮できるようになれば、成長はさらに加速すると思っています。
平澤
ありがとうございます。
島田
ただ、シナジー効果というのは、言うべくして、ものすごく難しい。一番難しいところは、技術的なことではなくて人間なんですよね。連携しながら行うことが難しい。人間同士が、協力し合って、きちんと情報も交換して、チームプレイであたればより高い効果を得ることができます。
1990年代アメリカでスタートし、今日大躍進しているAmazonは、商流という既存のビジネスをインターネットに接続したものです。GoogleやYahooも既存の商流や広告をインターネット検索につなげたものです。
平澤
おっしゃる通りです。
島田
別々に進めて来た2つ、3つの事業が協力しあったり、一緒になったりすることで、新しいビジネスモデルが生まれたり、既存のビジネスモデルが強化されたり、あるいは、成長スピードが加速することもあります。業界そのものの変化が大きいなかで、いかなる方向に進んで行くのか、それは非常に先見の明のある方向に行っていると確信しています。これまで蒔かれた成功ポテンシャルの大きいたくさんの種子に、これからいかに花を咲かせ、それらをシナジーさせていくのか、フェイスの将来の発展を楽しみにしています。
平澤
本日は長時間にわたり、ありがとうございました。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

島田精一さんプロフィール

1937年生まれ。東京都出身。61年東京大学法学部卒業後、三井物産入社。ナポリ留学を経て、70年イタリア三井物産駐在、85年メキシコ三井物産副社長、86年ハーバード大学経営大学院(AMP)を修了。92年三井物産本社取締役情報産業本部長、96年経営企画担当専務、2000年代表取締役副社長CIO(最高情報責任者)などを経て2001年日本ユニシス社長に就任。その後、住宅金融公庫総裁、住宅金融支援機構理事長などを歴任。2007年イタリア政府より「グランデ・ウッフィチャーレ勲章」を受章。2011年5月に当社アドバイザリーボード・メンバーに就任。現在、津田塾大学理事長。