島田精一さん × 平澤創 [対談]
島田精一さん × 平澤創 [対談]

フェイス25周年記念Webサイトスペシャル対談企画4【前編】
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Faithグループ アドバイザリー・ボード 島田精一さんに訊く
『朝の来ない夜はない。人生は楽しむためにある』
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

言葉もわからないままイタリアへ。
26歳で新規ビジネスを切り拓く。
メキシコでは無実の罪で195日間拘留。
我慢して我慢して、ある日突然、花開く
平澤 創(以後平澤)
次代を切り拓く新たなビジネスを生み出してきた島田さんの凄烈なご経験のお話を通じて、前に進み続けるために必要なこと、「心のあり方」を是非多くの人に知っていただける機会にしたいと考え、ご対談をお願いしました。本日は、よろしくお願いします。
まずは、三井物産でのイタリア駐在員時代のお話、これは特に若い頃の挑戦、「何はともあれ、まず飛び込むこと」をまさに体現されたものだと捉えているのですが、この辺りのお話からお伺いできますか。イタリアに行かれたのは何歳の頃でしょうか。
島田 精一さん(以後島田)
最初は、1963年、25歳の時です。三井物産の修業生制度で行きました。高校2年生の時、18世紀末、ゲーテがナポリへと旅行して1ヶ月以上滞在した日々を綴った「イタリア紀行」に感銘を受けたのがきっかけです。青い空、青い海が素晴らしく美しい、それ以上にブルボン王朝をはじめ、フランスやスペインの影響を受け、ヨーロッパの中でも最も文化が進んでいたナポリ、そのイタリアに、若いうちに行ってみたいと憧れていたんです。今、考えるととても無謀だったなと思いますが、イタリア語が全くできない状態で行きました。
平澤
全くですか?
島田
全くです。ひどいもんですよね。当時、会社にもイタリア語ができる社員は一人もいなかった。ペルージャ外国人大学でイタリア語を半年で習得し、それからナポリ大学の経済学部に行くというスケジュールでした。ペルージャは中世の古い街ですが、まずそこに飛び込みました。半年後のナポリ大学入学というターゲットは決まっているので、それまでにある程度、先生の言うことが分からないといけないのに、単語も全然知らなかった。イタリア語はラテン語が起源で、発音は比較的易しいのですが、文法がものすごく難しくて、しかもイタリア語でイタリア語を教わる授業だったんです。朝早く起きて教科書を読み、9時から15時くらいまで学校でイタリア語の授業を受け、下宿に戻ってからも徹底して勉強する。朝、昼、夜の食事時には必ず下宿先のおばさんやその15、6歳の息子さんと会話し、耳を慣らすために夜はテレビを見て、週末は毎週2、3本の映画鑑賞。訳が分からないのに会話をする、ストーリーに触れるという体験は本当に大変でした。そうやって朝から晩まで続けて、3ヶ月経っても全然分からない、進歩しない。僕は完全に語学音痴ではないか、会社から給料をもらって一生懸命勉強はしているけど、このまま半年が過ぎてしまったら辞表を書いて日本に帰らないといけないかもしれないとか、まあ若い時分だったので思い詰めていたんです。ところが不思議なことが起きて、4ヶ月近く経ったある日、突然、分かるようになった。
平澤
突然ですか。
島田
そう。授業に出たら先生の言うことが分かるようになっていたんです。下宿での会話、クラスメイトとの会話、テレビを聞いても、映画を観ても面白い。そこから1ヶ月くらいで急速に伸びました。後に40代でメキシコに赴任し、夜学でスペイン語を勉強した時も同じでした。当時はもう修業生ではないし、仕事で毎日使いますから一刻も早くスペイン語をマスターしないと、と必死でしたが、最初は成果が現れず苦労しました。こうした経験をもとにお伝えしたいのは、時間と習熟度を縦横軸にした語学曲線は、y=xの一次方程式の直線グラフではなく、y=x²やy=x³の放物線に近いということです。徹底的に勉強してもあるところまでは、結果が出てこない。しかし諦めずに継続していくと、ある時から急速に成果が現れてくる。成果が出てくると、自分自身も非常に面白く、励みになるのでますます一生懸命やり、さらにどんどん成長する。2ヶ月や3ヶ月で語学の勉強を辞めてしまう人が多いけれど、ずっと続けてやっていれば、どんな人でも必ずできるようになるんです。それは後々の仕事、ビジネスでも同じだなと思いました。
平澤
語学の習得は、若ければ若いほどいいと完全に思い込んでいたので、島田さんからこのお話を聞いて、正直、自分は失敗したなと思いました。島田さんは25歳でイタリアに行かれてからスタートされた。全く分からないところから死ぬほど勉強されて、ある日突然できるようになった、そういうことが起きるんだ、ということを是非多くの人に知って欲しいと思いますね。その後、ナポリ大学はどのくらいの期間、行かれたんですか。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
島田
大学は1年半近くですね。イタリアの大学は1年ごとに決められた単位の試験を全て合格していないと2年に昇級できないんですよ。
平澤
試験も難しかったのではないですか。
島田
僕は1年の時、無事にパスしました。ペーパーテストだけでなく、オーラルテスト(口頭試験)もあって。例えば、当時、出来たばかりのEC(ヨーロピアン・コミュニティ)、今でいうEU(ヨーロピアン・ユニオン)についてどう思うか、イタリアはECの中でどういった役割を果たせるか、といった質問に答える。試験を担当する先生は自分が習った先生が1人、後の2人は他の大学の先生なんです。あれは結構、苦労しました。そうした苦労はあったものの、ナポリでは、友達や友達の家族と随分親しくなりました。ナポリの人は非常に人懐っこく、陽気な人が多く、彼らの生活から「人生は楽しむためにある、そして、楽しむために働く」といった人生観を吸収しました。それはもう、その後の人生にものすごく役に立ちました。苦しい場面、それは仕事でも何でも、「これは楽しくなるために今、一生懸命やっているんだ」と思えるようになった。メキシコで投獄された時も「ああ、ナポリの時、そう覚えたな。ここを出られたら、また楽しい人生に戻れるかもしれないな」と思っていました。
すぐやる、必ずやる、出来るまでやる。
それが成果を上げる行動力。
平澤
憧れのナポリは大学だけで、その後はミラノ駐在ですね。
島田
そう、26歳からミラノ支店勤務となりました。当時のミラノ支店には、繊維部、化学品部、食品部、鉄鋼部しかなく、イタリア留学前、日本で所属していた機械部がなかった。そこで支店長命令で課長として機械課を立ち上げました。
平澤
このお話を最初にお伺いした時、それを許した会社もすごいけれど、26歳で、しかも海外で一から事業を立ち上げるってすごいなと心底思いました。
島田
支店長からそう言われても、経験がないからどうしていいか分からなかった。ともかく人を雇うところから始めて、男性社員1人と女性秘書2人と僕でスタートしました。
平澤
現地の方ですか。
島田
そう、現地のイタリア人。その男性とは今でも付き合っています。
平澤
そうなんですか!すごいですね。
島田
女性もね。1人は亡くなってしまったけれど、もう1人とはミラノに行った時には会うことが多いですよ。
平澤
今でもコミュニケーションが続いているのですね。
島田
はい。その通りです。
一方事業としては、何をしたらいいのか分からないなか色々と考えて、当時、日本の機械の中で、もっとも進んでいるものの一つとして工作機械があったので、それを輸出しようと決めました。相手はどこがいいかなと考え、イタリアで一番大きい機械メーカーは自動車メーカーのFIATでしたからそこに狙いを定めたんです。最初は、けんもほろろでした。「俺たちはドイツの機械を買っているんだ、何をしに来た」と。確かに日本の機械輸出はまだ始まったばかりで、日本といえば、ゲイシャ・フジヤマしか知らないような人ばかりだったから。会ってくれたFIATの人が、「君、工作機械を売りに来たのはいいけれど、日本では自動車は走っているのか」と問うから、それはもう驚きました。
平澤
そのくらいの認識ということですね。
島田
1963年ですからね、55年前。そういう認識ですよ。いや、日本ではもう自動車は走っているし、先進国になりつつあるんだというような話をした記憶があります。ミラノからFIATのあるトリノまでは、車で約150km走るんですが、2日に1度のペースで通いました。
平澤
その間、全然、何も売上がなかった。
島田
売上ゼロ。半年くらいは何も言われなかったんですけど、そのうちね、だんだん支店長からのあたりが厳しくなった。「君は何をやっているんだ」と。相手先に行くだけで経費はかかるし、スタッフも3人いるし、稼ぎはゼロ。これはまずいと思っているところに、たまたま知り合いから医療機械の話を聞いて、結果的にポータブル型レントゲンを1台売りました。小さい商売でしたけど、それが売上第1号機になりました。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
覚えているものですね、第1号機。
島田
それはもう必死でしたからね。
平澤
26歳の頃。
島田
そう26歳。かなりの経費を使っているのに、会社に何も貢献していないと大きな責任を感じていました。特に僕らの時代は、企業戦士なんていう言葉があって、企業戦士のひとりとしてイタリアで日本のために外貨を稼がなくちゃという想い、当時それはもう、会社と自分とほとんど一体のような時代ですからね。気持ちだけは、「日本の運命は俺が背負っているんだ」くらいなのに、現実は全然駄目なわけです。語学の時と同じように、また自信を失いそうになりながらも、1年以上ずっとFIATに通い続けたんですよ。そうしたらね、さすがに向こうの人が気の毒に思ったんでしょうね。
平澤
(笑)。
島田
「いやね、実物を見ないと工作機械は買えないよ」と言ってくれた。僕らはカタログで説明していたから、確かにそれはそうだ、と。けれど、日本に見に行くなんてとんでもないということだったから、また色々と考えて、その年の冬に2年に1回開催される工作機械の見本市がたまたまミラノであったので、「そうだ、見本市への出品なら、販売実績のない商品でも日本の担当部署は出してくれるかもしれない」と思いついたわけです。すぐに東京の担当課長に電話し「ぜひ、出品してくれないか」と掛け合ったところ、「いや、日本からイタリアになんて出品したことないよ」と断られた。でも、実物を見てよければFIATが買ってくれそうだ、イタリアで第1号機の実績ができる可能性があるからと言って口説いたところ、「君、それコミットするのかね」と。
平澤
きましたね(笑)。
島田
嘘を言う訳にはいかないから、「コミットはできないけれど、死ぬ気で売ります。もしFIATに売れなかったらアルファロメオに売りに行きます。もう命懸けでやりますから、ぜひ出品してください」と懇願し、これを実現しました。実際、見本市には東京から担当者とメーカーのエンジニアも来て、工作機械の実演をしてくれました。それを見たFIATの担当者がマネージャーを呼び、また再演してと、必死ですよ。そうしたところ、実演後、そのマネージャーは何も言わないで帰ろうとするから、追いかけて行って「私はこれが売れないとクビになるんです」って言って。
平澤
それは、全部、イタリア語で話すんですよね。
島田
そう。イタリア語にも英語のfireと同じようなクビになるという言葉があるんです。そうして、マネージャーからは「もう一回よく検討するけど、多分、買うつもりだ」と言われたんです。でも確かに買うつもりとは言ってくれたけど、買うとは言ってくれない。だから、まだ東京には言えない。それでしょうがないから、また次の日、150kmの道のりを車でFIATに向かいました。その当時、冬だったんですけど、あの辺りは冬になると日本では考えられないくらいの霧が出るんです。その視界が5mくらいの道を走りながら、「こんなにやっても本当に成果が出るかどうかもわからないのに」と、大変な霧の中を心も本当に霧の中でした。
平澤
よくその光景を覚えていらっしゃいますね。
島田
よく覚えていますよ。必死ですからね。それから1、2週間くらいたった頃です。朝、会社に行くと、「ミスター島田、素晴らしいニュースがあるよ。FIATの購買部長からグッドニュースがあるから、すぐ来るようにと電話があった」と秘書が言うから、喜び勇んで行ったんです。到着してすぐ打ち合わせを始めたのですが、当時の値段で2,000万円、今で言ったら1億円くらいのものすごく高い機械なので、僕は1台だとばかり思っていたら、3台も注文するって言うんです。もうビックリしてね。彼らはその工作機械のことをものすごく研究して、自分たちが持っている機械よりも性能がいいということが分かったらしく購入を決めてくれたんです。話がついてもうすぐにでも帰ろうと思っていたら、「ちょっと待て」と言うんですよ。何が起こるのかと思っていたら、シャンパンを2、3本持って降りて来て、結構ちゃんとした部屋に案内され、「随分通ってくれて、いい機械を紹介してくれた。いいビジネスができた。ミスター島田のために乾杯しよう」ってね。こっちはもう涙が出そうに感激しました。
仕事に100%の正解はない。
だからこそ、自分の判断を信じること。
島田
後に自動車の純正部品の取引でも同じようなことがありました。工作機械は1年くらいでしたが、純正部品は2年かかりました。それも途中で諦めそうになったんですけど。
平澤
霧の中をまた。
島田
そう。通い続けました。
平澤
時代が、本当に今と違いますよね。今という時代は、本当に流れが速いじゃないですか。
島田
そうそうそう。当時はね。
平澤
1年、2年って、私からすると、天文学的な数字くらい長く感じますが、会社もよく待ってくれましたよね。結局、イタリアは何年いらっしゃったんですか。
島田
ペルージャ外国人大学に半年とナポリ大学に1年半、それから2年半くらい駐在したので5年弱ですね。
平澤
当時、島田さんが作られた機械の部署というのは、今でも?
島田
イタリア三井物産として、ビジネスをしていますよ。
平澤
26歳の時にその一番の基礎を作られたということですよね。このお話がすごいなと思うのは、イタリア語が分からないのに渡伊されて、確かに時間はかかったかもしれないけれど、26歳でゼロからビジネスを立ち上げられた。それを許した会社があって、かつ、もう絶対に負けなかった島田さんがいらっしゃる。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
島田
いやいや。当時のイタリアの経済は上り調子だったのでFIATの仕事もできたんだと思います。
平澤
当社も海外でビジネスを立ち上げる時、いつまで我慢したらいいのか、すごく迷うんですよ。
島田
経営者にとって、それはものすごく重要ですね。
平澤
その見極めが難しい。
島田
僕はその後、マネジメントサイドを長くやりますけど、いつも「これは先行期間なのか、無駄な努力をしているのか」と問いながら進めていました。その見極めは常に難しい。よく「夜明け前が一番暗い」と言いますが、本当に夜明け前なのか、あるいは、延々に夜が明けないのか。
平澤
そうそう。何もないのか。
島田
ここまで投資して来たから、ここでやめれば全てロスになると判断して引っ張ったら、結局、3年経っても4年経ってもダメだったというビジネスもあるし、ダメだと思って切ったら、他社がそれを成功させたり。そうすると、もう少し我慢していたらよかった、とか考えますよね。先行期間はどのくらいか見極めるのは本当に難しいけれど、それが社長の役目だと思いますね。
平澤
そうですね。最終的に勘でしかないのかなとか、いろいろ考えます。
島田
半分は勘だと思います。後の半分は市場分析や環境分析、類似商品の実績分析などデータから仮説を導き、モニタリングして仮説を検証する作業も必要です。過去の集積に過ぎないデータだけでは未来は拓かれませんが、勘を養い、勘の精度を高めるには、地道に積み重ねる以外にありません。
おもしろきこともなき世におもしろく
すみなすものは心なりけり
平澤
次にお伺いしなくてはならないのは、やはりメキシコ時代のお話です。特に投獄事件。このお話が実に奥深い。
島田
メキシコに行ったのは1980年。その5年くらい前にメキシコ湾岸で原油がたくさん発見されたメキシコは産油国になり、工業化が進んでいった時代でした。同時に農業国から工業国へと転換を図るため、石油化学プラントや製鉄所を作る政府系企業の大きなプロジェクトの計画があり、その対応に僕が行くことになったんです。
平澤
スペイン語もその時は初めてですか?
島田
そう。ただ、「スペイン語はイタリア語に近いんだから、君、大丈夫だろう」なんて上司に言われてね。僕は新しいことをやるのが好きだから、これから原油や天然ガスを中心に発展する、そういう新興国でビジネスをするというのは、面白いチャレンジングじゃないかと思って、喜び勇んで行ったんです。
平澤
その時、メキシコではどんな体制だったんですか。
島田
当時のメキシコ三井物産は100人くらいの会社で、日本人は10人くらい。社長がいて、43歳だった私は副社長として、プロジェクト/機械部門を全部任されての赴任でした。当初、仕事は着実に進んで、赴任2年目には、1,700億円という製鉄所の契約をまとめました。一つであれほど大きな契約は、以降も経験がありません。日本側は三井物産と日立造船、当時の日本鋼管、今のJFEの3社連合で、1,700億円をドル建て・7年半の長期延べ払いで契約しました。ところが、その半年後にモラトリアムでメキシコという国が破産してしまって、半年後の予定だった1回目の入金が行われない。それは国の外貨勘定がスッカラカンになってしまったからで、ペソなら払えるけど、ドルでは払えない、と。そんな大変な事態になったわけです。イタリア時代にもFIATの自動車部品を5年の長期ドル建て契約した後、忘れもしない1971年8月15日にニクソン・ショック(ドル・ショック)が起こり、為替が変動相場制に移行したために、USドルのレートが一気に下がって大損しそうになったことがあったんです。その時は、ハードネゴの末、三方一両損で乗り越えられましたが、メキシコの時はさらに大変でした。
平澤
その金額ですから、ご苦労は並大抵なものではなかったと思いますが。
島田
日本の商社連合でメキシコ政府とネゴしようということになり、日本の会社では、三井物産が一番大きな債権をメキシコ政府に対して持っているということで、日本の大使館から交渉のリーダーになれと指名されたんです。メキシコの大蔵大臣、大統領のところにも何度も掛け合って、これも半年かかって解決して、結果的にはあまり大きなロスなく、決済してもらうことができました。イタリアではミラノで結構エンジョイし、それからメキシコでも非常に大きな仕事、歴史に残る仕事だなんて随分褒められていい調子になっていたんですけど、それがドボンとある日。
平澤
ある日。
島田
ある日、オフィスの地下駐車場で車を降りると、4人くらい男が走ってきて、ハッと気付いたら、拳銃を突きつけられ「動くと撃つぞ」と。当時、日本人商社マンを狙う身代金誘拐事件が頻発していたので、一瞬、「誘拐だ」と思ったんです。ところが連れて行かれた先は検察で、そのまま拘置所に放り込まれました。こちらは何も悪いことをしていないし、4、5日で解放されると思っていたら、結果的には195日、閉じ込められてしまった。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
平澤
衛生状態もすごく悪かったんじゃないですか。
島田
大変でした。悪臭もひどく、ありとあらゆる虫、しらみやノミもいたし、生水を飲めば、まず間違いなく赤痢か肝炎になるから、生のものは食べられないし、水も飲めない。拘留3日目にワイフが煮沸した水を水筒で持って来てくれて、投獄後初めて水を飲み、「ああ、これで生き永らえることができた」と思ったのをよく覚えています。
平澤
投獄された理由はなんだったんでしょうか。
島田
取引先の一社が、書類を偽造して詐欺事件をでっち上げ、メキシコの検察に僕らを逮捕させたんです。要求された和解金は300億円。減額の交渉をして、支払うという話も聞こえてきたので、僕は、そういうことをすれば、日本人はすぐに負けて払うと知らしめることになるから、「絶対に払わないでください。私の覚悟はできています」という手紙を三井物産の社長と会長宛てに書き、頑なに拒否する意思を伝えました。
平澤
払った方が本当は楽だったんじゃないですか。
島田
そうなんだけれど、そうした形で外に出られても、それで僕の一生は終わりだな、と思って。だって負い目を追っちゃう訳ですからね。
平澤
もう美学ですよ。理不尽な話なのに。
島田
そうして195日が経ったある日、突然、解放されたんです。
平澤
どうして解放されたんですか。向こうが根気負けしたんですか。
島田
会社が日本政府を通じて抗議をしたので、日本政府とメキシコ政府の問題になり、大統領が裁判所に調べに入ったんです。三権分立から言えばおかしな話ですけど、実際に調べに入ったら、これはでっち上げの事件だと分かって、裁判の判決もなしに、慌てて解放されたという訳です。
平澤
195日って、半年以上ですからね。その間は、何を考えていらっしゃったんですか。
島田
人間ですからね。「どうしてみんなもっと助ける為の努力をしてくれないのか」とか、「そのビジネスを契約した前任者のせいで俺がこんな目にあっているんだ」とか、はじめは恨み辛みですよ。でもある時、ハッと気がついたんです。「こういう心理状態でいくとうつ病になるか、正気を失うかどっちかだ。これではダメだ」と。そんな時、友人たちから差し入れられた本の中から、手に取った1冊目が高杉晋作の生涯を綴った本で、その中で出会ったのが、
『おもしろきこともなき世におもしろくすみなすものは心なりけり』
という晋作の辞世の句です。それを見たとき、ああ、と思いました。つまり、「自分がこの世の中は面白いはずだと思っているから、『前任者がああだったんじゃないか』『会社の対応が悪いんじゃないか』と人に恨みを抱くようになるんだ」と。この言葉は、そもそも世の中は面白くないようにできているのだから、この世を面白くするのは自分の心の持ち方、自分の行動の仕方次第だ、と教えてくれた。自分の手で少しでも面白くすればいい。とはいうものの、拘置所の中では24時間暇なわけですよね。仕方がないので、若い頃、詩や短歌、和歌を作っていたのを思い出して、1日に10首の短歌を作ろう、と決めました。1首作るのに30分から1時間かかるとして、作っている間は気が紛れると思ってね。ちょうど1,000首作ったところで解放されましたけど。
平澤
その短歌は、今どこにあるのですか。
島田
ある程度まとめてくれた人がいて、家においてあります。出版しないかと言ってくれる人もいたんだけど、短歌としてはそれほどの実力はないし、恥ずかしいからね。最初にできた短歌は、
「メキシコの北拘置所のハカランダ木陰に立ちて新聞を読む」
ハカランダは、南半球に自生する真紫の花が素晴らしい美しい木です。日本で言うところの桜みたいな存在。その花が咲き誇る木の下で、久しぶりに活字を目にした時の想いを自然に詠んだんですね。ある日、自由時間が終わり、鉄格子の中に戻って時計を見たら3月10日で、次男の誕生日だった。当時、小学校4年生。ちゃんと生きて出られるのかどうか、僕がこの中で死んだら誰が次男を育ててくれるのかなという不安もあり、その想いもすぐに短歌になりました。
「拘置所の鉄格子寒く床に寝て行く末思う次男の誕生日」
平澤
ご家族も大変な思いをされたでしょうね。本当に。
島田
その時、思いました。短歌や俳句、詩というものは、ものすごく逆境になるとできるものだと。だから、石川啄木とか芥川龍之介とか、ああいう人たちもみんなやっぱり逆境になった時にいい作品ができているのだなと。
平澤
音楽もそうですからね。結構、追い詰められるといいものができる。あれは、人間ならではの不思議な感性ですよ。
島田
そうそう。だから今、僕は短歌を作れと言われても全然作れない。なぜなら今、ハッピーだから(笑)。
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創
後編へ続く
『 誰も未来を感じなかったIT産業、先行投資が膨らみ大赤字、
「夢の島(ゴミの島)」と揶揄されていた情報産業部門。
新たなビジネスを次々と創造し、3年で黒字化へ。』
島田精一さん×株式会社フェイス代表取締役社長 平澤 創

島田精一さんプロフィール

1937年生まれ。東京都出身。61年東京大学法学部卒業後、三井物産入社。ナポリ留学を経て、70年イタリア三井物産駐在、85年メキシコ三井物産副社長、86年ハーバード大学経営大学院(AMP)を修了。92年三井物産本社取締役情報産業本部長、96年経営企画担当専務、2000年代表取締役副社長CIO(最高情報責任者)などを経て2001年日本ユニシス社長に就任。その後、住宅金融公庫総裁、住宅金融支援機構理事長などを歴任。2007年イタリア政府より「グランデ・ウッフィチャーレ勲章」を受章。2011年5月に当社アドバイザリーボード・メンバーに就任。現在、津田塾大学理事長。